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ボスニアのコーヒー②

これもボスニアのコーヒーに続く話。実はボスニア、約400年の間、オスマン帝国の支配を受けていました。前の記事に書いたボスニアのコーヒーもトルコ人からきた風習です。 しかし、ボスニアという国は長い間他の国の支配を受け続けたために自分たち独自の文化を持とう、という強い気持ちがあった訳です。 そしてこのコーヒー。トルコと一緒だよね?!と思う人もいると思います。しかし作り方が違うんですね。 トルコはジェズバでお湯を沸かし、コーヒーを入れしばし待つ。そして砂糖も一緒に入れて飲む、これがトルココーヒー。 ボスニアコーヒーは、作り方が違います。 ジェズバを二つ用意して、一つは水を沸かし、もう一つではコーヒーを煎ります。 コーヒーの香りが立ってきたら、少しずつジェズバのお湯をコーヒーが入っているジェズバへ入れて行くんです。ゆっくり作ることで、コーヒーの粉のざらつきが違うんです。 コーヒー一つでも歴史的背景がわかるんだなーと思いました。

Hungarian Revolution and Yugoslavia (2)

The Petofi Circle and the Association of Hungarian University and College Union (MEFESZ) are important organization. The Petofi Ciecle published "ten points", while the MEFESZ published the "six-teen points." Mainly their requirements were similar. 1) Imre Nagy should be a new leader in Hungarian government 2) Soviet armies should get away from Hungary 3) The government should establish new economic policy 4) The government should guarantee equal right and justice. First, students began demonstration on 23 October, 1956 to demand radio building to broadcast their points. However director refused their requests. Soon, AVH began to attack. Immediately the demonstration turned to revolution. Soviet army continued to attack in Budapest. On 28 October, the Soviet army stopped attack, then Nagy established a new government. However, when he knew that the Soviet army would come to attack in Budapest again, he sent a message to the UN on 1st November. In a message,

Hungarian revolution and Yugoslavia (1)

 I wrote a paper about the Hungarian Revolution 1956.  Actually it was interesting task for me. Today I will write about the revolution. The Hungarian Revolution was the first serious revolt against the Soviet Union's communist regime after the Second World War. The aim of the revolution was to establish a new government, a new economic policy without any Soviet controls. Under the one political party and the Soviet controls, Hungarian people were always under the terror and unsecured.  Matyas Rakosi (1892-1971) conducted total dictatorship in Hungary based on the Soviet system. First of all, the Political Security Department (later re-named to AVH) was set up in Pest.Their task was to eradicate of democratic political party and intellectual work, to monitor mail and phone conversation, even private home.  Actually Hungary had mainly four political parties, such as the Hungarian Communist Party (HCP), the Independent Smallholders (Smallholders), the Social Democrats (S

ハンガリー動乱と(ちょっと)ユーゴスラビア

先日ハンガリー動乱についてのレポートを書いていました。恥ずかしながら、ハンガリーに行った事はありますが、歴史的に詳しく知らなかったので初めは色々難しかったのですが、調べるうちに楽しくなってしまって、非常に充実した課題でした。 ハンガリー動乱というのは、1956年の10月23日に始まり11月4日に集結した革命です。 正式には11月7日に終結しましたが、この事件を語る時には一般的に11月4日にソ連軍がブダペストに攻撃した時の事を終結と意味するそうです。この革命は、冷戦下の東ブロックでは重要な革命でした。なぜならば、第二次世界大戦後初めて本格的な、ソ連共産主義に対する抵抗だったからです。 第二次世界大戦時、ハンガリーは枢軸国に支持しており、敗戦後はソ連の影響下に置かれました。戦後戦勝国どうしの対立から、世界は東と西に分裂。共産主義を支持するソ連を中心とした東ブロック、資本主義を支持するアメリカ、西ヨーロッパの西ブロックに分裂したのです。このようなプロセスを経て、冷戦に発展しました。 スターリニズムといった政治モデルをそのままハンガリーに応用した結果、ハンガリー市民の生活は困窮しました。当時のリーダー、マーシャル・ラコーシは秘密警察を結成し、一党独裁政治を設立しました。経済も計画経済に移行したのですが、その結果、店には商品がなく、市民は食券なるものをもってわずかな食料を求め何時間も並ぶ日々。特に農民の生活は苦しく、秘密警察監視のもと多重な税金を納めなければ成らず、多くの農民は海外へ移住したそうです。 教育システムも共産主義のスローガンを教え込まれるなど、徹底したものでした。大学では西側の資料を手に入れる事ができず、徹底的に西から閉ざされ、言論の自由も奪われた環境だったのです。 ハンガリーだけではなく、他の旧共産圏、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツなども市民の生活は苦しく、スターリンの死後、各地で暴動が起こりました。初めは東ベルリンの労働者によるものです。彼らの勤務環境の劣悪さなどから暴動を起こし、ソ連軍が鎮圧しましたが、ハンガリーやチェコスロバキアにもその影響は広がったのです 。 そこで、スターリン死後新たなリーダーとなったのが、ニキータ・フルシチョフでした。彼はスターリンが作り上げた厳しい体制を緩和していく事を表明。一

Ustni Izpit/ 大学の口頭試験

6月20日に一応テストが終わりました。まだレポートと論文が残っていますが、非常に山場だったので、パスして安心してます。これで残りの課題に集中できます。 さて、題名のUstno izpitですが、これは口頭試験という意味です。19世紀の南東ヨーロッパの歴史のテストでした。私、恥ずかしながら日本でこれをやったことがありませんでした。なので、テストと聞くと筆記試験のことって思ってて、口頭試験と聞いて超びっくりでした。しかし、友達の話によると、ヨーロッパでは小学生の時から試験は文系理系どちらの科目も筆記と口頭で行われるのが普通だそうです。 もう詰め込むだけ詰め込んで挑んだ本番・・・。 もう全身汗だらけです。私の癖として、どうしても節目がちに応答したり、姿勢がまるまったりして、いかにも自信がない態度で人と話すことがあります。(特に目上の人相手・・)しかし、それはここでは本当にタブー。姿勢をただし、相手の目をみて話し、お辞儀もしないのが大人の振る舞い。 自信なかったけど自身のアルふりをして答えました。 質問は二つ。 タンジマートの目的となぜ成功しなかったか 第二次バルカン戦争はなぜおき、どのような結果を招いたか ほうほう、これはばっちりやったでー。急いで頭の中で筋道立ててぶぁーっと話しました。 で、先生もなるほどなるほど、じゃあこの場合はどうだね?とか、もう少し詳しく話してくれる?とかどんどん突っ込んでくるんです! 筆記試験だとそうはいかないなと。書くだけ書いて点数もらうことができるけど、口答試験だと一対一で私がどれだけ内容をしってるかじっくり確かめられてしまうってきずいたのです! 正直何個か間違ったけど、パスできてよかった。 終わったけど、本当にまだまだと感じました。もうすこし俯瞰的に物事をみて学習する必要があるなと思い知ったのです。 論文発表はこれの何百倍も厳しいものだと思います。 だからもっと準備します。一休みして課題をかたづけるぞー!!!!

バルカンってどこ?

私のブログタイトルである、Almost All the Balkans ;)ときいて、「バルカンって何?」「一体どこのこと?」って思った人が多いと思います。しかし、明確な定義は学術的にも分かれている 地域です。現在では、地理的定義と歴史的定義があります。 地理的に言うと、サヴァ川から南, そしてアドリア海、エーゲ海、黒海に囲まれた地域がバルカンといわれています。よって、スロベニア(南部)、クロアチア、セルビア、ボスニア、マケドニア、ギリシャ,ブルガリア、モンテネグロがバルカンといえます。 しかし、歴史的な定義もあります。その場合は、オスマン帝国統治下にあった国がバルカンだとみなすので、スロベニアは除外され、ルーマニアがバルカン地域とみなされます。 Photo1 この明るい部分が地理的に定義されているバルカンといえます!!! そもろも、バルカンというのはトルコ語で、「樹木におおわれた山」という意味があり、バルカン地域は山がちな地域であるといえるのです。下に代表的な山脈の写真を載せました。位置関係など、上にのせた地図を照らし合わせてみてみてください。 写真はバルカン山脈です。別名スタラ・プラニナ山脈と言います。セルビアとブルガリアの国境からブルガリア側の黒海まで伸びています。なんとおよそ560kmもある山脈です。 Photo2 セルビアとブルガリアの国境にある場所からの眺め 下の写真はブルガリアに位置しているピリン山脈。 Photo3 ラズログ渓谷から見たピリン山脈 ブルガリアの南部からギリシャへ伸びているロドピ山脈。面白い名前ですね。 Photo4 ロドピ山脈 スロベニア、クロアチア、ボスニア、セルビア、アルバニア、にかけて広がっている、大変長い山脈です。 Photo5 ディナルアルプス こちらはピンドゥス山脈。アルバニア南部からギリシャ北部にかけて広がっている山脈です。およそ160kmの長さです。 Photo6 ピンドス山脈 下の写真はシャル山脈。 コソヴォの南部からマケドニア北部そしてアルバニアの北部にかけて広がっています。 Photo7 シャル山脈 とっても綺麗ですよね~。これらの山