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ボスニアのコーヒー②

これもボスニアのコーヒーに続く話。実はボスニア、約400年の間、オスマン帝国の支配を受けていました。前の記事に書いたボスニアのコーヒーもトルコ人からきた風習です。 しかし、ボスニアという国は長い間他の国の支配を受け続けたために自分たち独自の文化を持とう、という強い気持ちがあった訳です。 そしてこのコーヒー。トルコと一緒だよね?!と思う人もいると思います。しかし作り方が違うんですね。 トルコはジェズバでお湯を沸かし、コーヒーを入れしばし待つ。そして砂糖も一緒に入れて飲む、これがトルココーヒー。 ボスニアコーヒーは、作り方が違います。 ジェズバを二つ用意して、一つは水を沸かし、もう一つではコーヒーを煎ります。 コーヒーの香りが立ってきたら、少しずつジェズバのお湯をコーヒーが入っているジェズバへ入れて行くんです。ゆっくり作ることで、コーヒーの粉のざらつきが違うんです。 コーヒー一つでも歴史的背景がわかるんだなーと思いました。

ギリシャ旅行①~印象深かった食べ物編~

大変お久しぶりです。実はゴールデンウィーク、ギリシャに行ってきました。 行ってきたのは、アテネとクレタ島です。ギリシャのカンタンな紹介とともに、今回の旅行の感想を述べたいと思います。 まず、ギリシャと言えばおいしい食べ物です。ほぼ毎日食べていたのがギリシャ風サラダ! ヤギのミルクから作ったフェタチーズとオリーブ、パプリカ、トマト、タマネギ、キュウリのシンプルなサラダで美味です。左側はダコスといってクレタ島でよく食べられているものです。固いパンの上にフレッシュトマト、カッテージチーズ、オリーブがのっていて美味。面白い事に、ギリシャ風サラダはアテネやクレタで5€から6€にぴったり統一されていました。ぜひぜひ試してみて下さい。 そして次はこれです。 みたままのオレンジジュースですが、これ本物のオレンジを絞った果汁100%のジュースです。オレンジが沢山とれるので、レストランやカフェでは必ずジュースを絞る機械があり新鮮なジュースが飲めます。とても暑い中このジュースに助けられました。 次は、このフラペというコーヒーです。 大きなグラスに並々注がれたこのコーヒーは、濃いめのコーヒーにクリーム、ミルク、砂糖で作った冷たいコーヒー。なかなか濃い味です。オーダーする時に砂糖とミルクは入れますか?ときかれますが、必ずYESと言った方が良いと思います。好き嫌いがあるかもしれませんが、私は好きですよ。なお、ギリシャには日本の様なアイスコーヒーがあります。スロベニアにも欲しいです。 こちらはギリシャ風ヨーグルトです。とってもクリーミーで濃厚な味です。ホテルの朝食にも出ましたし、食後のデザートにも出ました。美味です。なおギリシャのレストランでは、食事をオーダーすると必ずパンがでてきます。食後は必ずデザート、そしてたまにラキアというとーっても強いお酒が出てきますよ。 ギリシャでもシーフードが食べられます。この写真はアギアガリーニというクレタ島南に位置するレストランで食べましたが、もちろんアテネでも食べれます。タコも食べてました。お肉が苦手な人も安心ですね。ただ、地元に住んでいる人の情報によると、ベジタリアンの人にとっては少し大変なようです。もし魚も食べない人にとっては少しレストランを探すのに苦労しそうです。 これは

解体ユーゴスラビア

この本は、 1991 年に書かれた。ユーゴスラビア戦争が始まり、まさに一つの国が解体しようとしていた時、今現在もベオグラードに在住の山崎氏が現地の人々に行ったインタビューを集めた本だ。  最初にユーゴスラビアが建国されたのは、第一次世界大戦後の 1917 年。セルビア人、クロアチア人、スロベニア人によって建国された、南スラブ人の国だった。 3 つの民族はそれぞれ、オスマン帝国、ハプスブルク帝国に支配され、政治的にも文化的にも抑圧されてきた。よって 3 つの民族が力を合わせて、民主的な国家を建国しよういう目標のもと、ユーゴスラビアを建国した。しかし現実は民族的に人口の多いセルビア人による独裁国家となってしまった。少数派のスロベニア人やクロアチア人にとってはハプスブルク帝国の支配となんら変わらなかったのだ。  この憎悪は第二次世界大戦で明るみに出た。クロアチアがウスタシャ、セルビア人がチェトニク、また、共産主義に賛同する者達がパルチザンを結成し、ユーゴスラビア国内で虐殺がおこった。ウスタシェはクロアチア独裁国家を作るために、セルビア人を老若男女問わず虐殺し、無理矢理カトリック教に改宗を強制した。チェトニクはセルビア王国の復興をスローガンに、その思想に反する者を虐殺した。特にウスタシェのしたことは、ナチスドイツがユダヤ人にしたことよりも残虐だと言われているが、民族対立を恐れた、ティトー率いるユーゴスラビア政府はこのことを公にしなかった。  ティトーの死後は、彼の体制や民族に関する批判が公に語る事ができる様になり、過去に隠蔽された真実が明るみに出始めた。政治家達はそれを利用して人々の憎悪をかき立てた。  ティトーが過去をうやむやにしてしまったことは正しいとは思えないが、インタビューから解るのは人々がやっとティトー政権のもと、民族や宗教に関係なく、ユーゴスラビアで幸せな時間を過ごす事ができたという事だ。混血も多く、自分の事をユーゴスラビア人だと名乗る人がいる程、ユーゴスラビアはまとまった国だったのだ。   50 年以上平和だった国は、政治家のナショナリズムやそれを煽るマスメディアの力は、急激な速さで人の心を変えてしまった。メディアに流される人、たとえ真意とは反していても雰囲気にのって内戦を煽る人がいたことは非常に悲しか

バルカンの心

久しぶりの読書でした。今回は田中一生さんが書いた「バルカンの心」について。 この本は、著者の田中一生氏が 50 年以上かけて行った、バルカン研究の総まとめの本である。彼は 1960 年代、国費留学で旧ユーゴスラビアへ渡り、ユーゴスラビア文学を研究した。帰国後はユーゴ作家の翻訳や、セルビア語日本語辞書の編纂に携わり、バルカン文化を日本へ広めるために多大な貢献をした人物である。 バルカンというのは、面積で言うと日本程の広さだが、その歴史、文化や言語など、全てにおいてバラエティーに富んでおり、奥深い。本書は、歴史と文化、文学、そしてバルカンの都市の 3 つの分野に分かれている。この本には、バルカンの人々へのあくなき関心に溢れている。 特に感銘を受けたのはボスニア人文学者、イヴォ・アンドリッチについての考察である。彼は戦後初めて旧共産圏からノーベル文学賞を受賞した。「ドリナの橋」「ボスニア物語」「サラエボの女」「呪われた中庭」の 4 つが特に有名で、彼の小説には多かれ少なかれ橋が出てくる。それはなぜか。田中氏の考察によれば、アンドリッチは東洋と西洋、多くの民族と宗教が混在し、反発し合うボスニアに生まれ苦しんできた。よって、人々を結びつける橋に強い関心を持つようになったといっている。実際、アンドリッチも晩年このように語っている。「この世の全ては橋です。・・・微笑みも、ため息も、まなざしも。なぜなら、この世の全ては架橋される事、向こう岸に至る事を願っているのですから。つまり他の人と理解し合う事を熱望しているのです。」 外国人にとって、政治的また多民族共存の問題から生ずるバルカンの人々の苦悩を理解する事は非常に難しい。しかし田中氏は、外からバルカンを見るだけはなく、生活者の立場になって内部からバルカンを見ようと積極的に人と関わった。さらに歴史の根源を辿るために様々な都市を訪れ、人々の心にある深い本音、あるいは核心に迫ろうと尽力した。だからこそ、どの記事にも田中氏の幅広い教養がにじみ出ており、普通に暮らしているだけでは見えない、バルカンの本質がみてとれる。 私の専攻はバルカン史だ。それはとても重厚で、勉強すればする程、到底この地域を理解するのはまだまだ先だと身にしみている。彼らが歩んできた歴史、乗り越えて

最近のニュースに思う!

最近のニュースというのは、バルカン関係のある事です。 ユーゴスラビア紛争から約19年近く経過していますが、いまだに民族間の憎しみは消えないようです。 当たり前なんですけど、ナショナリズムや分離主義的な思考のままでは、新の和解は望めないと思う今日のこのごろ。 特に、ボスニアはクロアチア人、セルビア人、ボスニア人が共存してきた国家。今は民族ごとに住み分けされて、政治も民族ごとに政党があって、ニュースを見れば、各民族同士、各国同士いがみ合っている状態がとりあげられています。 なんだかな〜と思います。 紛争があってその一部が世界にとりあげられてるけど、人が温かくオープンで、純情で、明るくて、そんな人たちが素晴らしい文化を作り上げられてきて、ここのスロベニア人までその文化を楽しんでいるんです。もったいないです。 紛争は本当に悲惨で悲しいことです。被害者の傷が癒える事はもしかしたらないかもしれないけど、今後生まれてくる新しい世代、今後のバルカンの行く末を考えたら、前を見て協力していくことが絶対大事だと思うんです。 憎しみからは何も生まれないし、手を取り合って、宗教や民族、悲しい過去を乗り越えてほしと切に思います。

Ustni Izpit/ 大学の口頭試験

6月20日に一応テストが終わりました。まだレポートと論文が残っていますが、非常に山場だったので、パスして安心してます。これで残りの課題に集中できます。 さて、題名のUstno izpitですが、これは口頭試験という意味です。19世紀の南東ヨーロッパの歴史のテストでした。私、恥ずかしながら日本でこれをやったことがありませんでした。なので、テストと聞くと筆記試験のことって思ってて、口頭試験と聞いて超びっくりでした。しかし、友達の話によると、ヨーロッパでは小学生の時から試験は文系理系どちらの科目も筆記と口頭で行われるのが普通だそうです。 もう詰め込むだけ詰め込んで挑んだ本番・・・。 もう全身汗だらけです。私の癖として、どうしても節目がちに応答したり、姿勢がまるまったりして、いかにも自信がない態度で人と話すことがあります。(特に目上の人相手・・)しかし、それはここでは本当にタブー。姿勢をただし、相手の目をみて話し、お辞儀もしないのが大人の振る舞い。 自信なかったけど自身のアルふりをして答えました。 質問は二つ。 タンジマートの目的となぜ成功しなかったか 第二次バルカン戦争はなぜおき、どのような結果を招いたか ほうほう、これはばっちりやったでー。急いで頭の中で筋道立ててぶぁーっと話しました。 で、先生もなるほどなるほど、じゃあこの場合はどうだね?とか、もう少し詳しく話してくれる?とかどんどん突っ込んでくるんです! 筆記試験だとそうはいかないなと。書くだけ書いて点数もらうことができるけど、口答試験だと一対一で私がどれだけ内容をしってるかじっくり確かめられてしまうってきずいたのです! 正直何個か間違ったけど、パスできてよかった。 終わったけど、本当にまだまだと感じました。もうすこし俯瞰的に物事をみて学習する必要があるなと思い知ったのです。 論文発表はこれの何百倍も厳しいものだと思います。 だからもっと準備します。一休みして課題をかたづけるぞー!!!!

バルカンってどこ?

私のブログタイトルである、Almost All the Balkans ;)ときいて、「バルカンって何?」「一体どこのこと?」って思った人が多いと思います。しかし、明確な定義は学術的にも分かれている 地域です。現在では、地理的定義と歴史的定義があります。 地理的に言うと、サヴァ川から南, そしてアドリア海、エーゲ海、黒海に囲まれた地域がバルカンといわれています。よって、スロベニア(南部)、クロアチア、セルビア、ボスニア、マケドニア、ギリシャ,ブルガリア、モンテネグロがバルカンといえます。 しかし、歴史的な定義もあります。その場合は、オスマン帝国統治下にあった国がバルカンだとみなすので、スロベニアは除外され、ルーマニアがバルカン地域とみなされます。 Photo1 この明るい部分が地理的に定義されているバルカンといえます!!! そもろも、バルカンというのはトルコ語で、「樹木におおわれた山」という意味があり、バルカン地域は山がちな地域であるといえるのです。下に代表的な山脈の写真を載せました。位置関係など、上にのせた地図を照らし合わせてみてみてください。 写真はバルカン山脈です。別名スタラ・プラニナ山脈と言います。セルビアとブルガリアの国境からブルガリア側の黒海まで伸びています。なんとおよそ560kmもある山脈です。 Photo2 セルビアとブルガリアの国境にある場所からの眺め 下の写真はブルガリアに位置しているピリン山脈。 Photo3 ラズログ渓谷から見たピリン山脈 ブルガリアの南部からギリシャへ伸びているロドピ山脈。面白い名前ですね。 Photo4 ロドピ山脈 スロベニア、クロアチア、ボスニア、セルビア、アルバニア、にかけて広がっている、大変長い山脈です。 Photo5 ディナルアルプス こちらはピンドゥス山脈。アルバニア南部からギリシャ北部にかけて広がっている山脈です。およそ160kmの長さです。 Photo6 ピンドス山脈 下の写真はシャル山脈。 コソヴォの南部からマケドニア北部そしてアルバニアの北部にかけて広がっています。 Photo7 シャル山脈 とっても綺麗ですよね~。これらの山